『DOLLS』北野武
面白かった。深キョンって結構特異な位置にいるよなあ。時々、アイドル(偶像)としての資質思ってる以上にすごいんじゃないかと感じる。
全体としてもう少し多弁になってもいい気もするけど、言葉で表現できないものを描こうとしているから難しいのかも。それより、そうした表現の模索が随所に感じられて、その感動の方が強かった。物語の型だけに目が行きがちなベタな話の、えてしてこぼれ落ちてしまう情感や叙情が巧みに画面の上に浮かび上がっていて唸ることしばし。
そしてまた、そういう視点で観てて思ったのは、監督(作者)の名前を意識せざるをえない鑑賞者のあり様ってのはどんなもんなのかということ。小説読んでても映画観てても、作品内部のストーリーだけでなく、作者がこういうことを考えてこの場面を描いてるのかな、という想像から逃れられない見方をしてしまう(ことを自覚してしまう)。
その態度には、もしや作品それ自体でなく、俺は作者の名前で作品を観ているのかという疑念が付きまとう。それは一方では作者と作品に対する態度として不誠実にも見えるし(作者が無名ならつまらないのか)、作品の真の(?)価値を見落とさせているバイアスとなっているようにも思える。
ただ、他方ではその作者だからこそ描けたという、その人の人生が作品から顔を覗かせる瞬間にこそ、作品自体の奥行きが広がる場合もあるし、観るものの楽しみも(少なくとも量的には)増すのも確かで。
この2つの態度の間の揺れ動きには戸惑うばかりだけど、作品によってはこんなこと考えさせられないものもある。それが娯楽と芸術の違いなのか何なのかは分からないが、少なくともこういう風な想像を喚起させる作品に接するのは、いかにも幸せなことのように思える。
見えないものが見えている、あるいは見ようとしているという人が自分だけではないという事実がどれだけ凡庸な人間にとって慰めになるか……。
実際、ほんのちょっと解説書を読んだ程度の薄い知識しかないけど、デリダのテクスト論や物語論(ナラティブ・アプローチ)(の応用?)といったものがあるというのは、そうした作品、作者、鑑賞者の関係が生きる上で引っかかってしまう人が他にもたくさんいるということなんだろうなあ。
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